From Contarina to Prince 1989

Ghirri, Luigi, 2017, The Complete Essays 1973-1991, London: Mack, 192-5.

和訳(本文注は筆者による)

 

掲載図:「Île Rousse 1976」(リル・ルッス:フランス、コルシカ島

 

「コンタリーナからプリンスまで 1989」

 

 その電線は音符のない楽譜の線のように見えます。それらは合流し、地平線を越えて、散らばった家々を通り過ぎていきます。立ち止まれば、静寂の中に、微かでも絶え間ないハミング(鼻歌)が聞こえるでしょう――電線は通電する電気の音だと言うでしょうが。このあたりでは、川岸に沿って、赤と白の縞模様の煙突に気づくことができますが、それはこの風景でみられる唯一の色彩です。

 電気エネルギーの存在はどこをみても明らかです。電線は遠くに消えていく細く霞んだ道路に沿って走っています。それらは、交差点で曲がり、分かれます。電線をたどることで、実際にどこにでも行くことができ、壁のないこの迷宮からアリアドネの糸のように抜け出すことができると感じられます。

 私の前にあるのは、一方ではすこし不安を感じさせますが、その他方では安心させる風景です。おそらく、ここで感得し得る唯一の感覚は、単に自分が存在していると感じることです。しかし、これは無関心の感覚と結び付いているもので、緊張や期待はありません。

 町それ自体も、おそらく濃い夏の霧によって、眠そうに見えます。小さな別荘のようないくつかの家は、確かアンジェロ・シルヴィオ・ノヴァロ[1][1866-1938]の詩の中の、文学作品集のある絵を思い出させます。そして、町のすぐ外の埋め立て地の農場は、ニュース映画[2]のリボンのパッチワークを思い出させるかのようです。

 人々が場所と呼ぶこの場を説明する形容詞を見つけることはできません。実際、ある特定の町や村について言及するときはいつでも、人びとはたいてい「変なところだ」と言います。そうして私から逃れている特異性を強調するのです――なぜなら私にはそれらがすべてまったく同じに見えるからです。

 私は、この奇妙さを発見するという微かな望みをもって、ほんの少し違うのかあるいは何も違わないのか気づくまで、さまよい続けます。コンタリーナ(ポー川のデルタ地帯の近くにある)のような、おそらくそれは、町全体を上からあるいは近くで交差する道路のもつれから見ることができるといったことや、あるいは製糖工場かその下に拡がるゴミでいっぱいの奇妙な沼のにおいといったことからなる特殊性によってです。

 とにかく、それは置いておいて、そこの人々にとって「変な」とは「神秘的な」と同義であるとみなせます。この近似を解決しましょう。「悲しい」、「荒涼とした」、「平和な」そして「静かな」という言葉は、私が出会った町の四方それぞれ(住民にとって必要不可欠なバーや教区教会や駐車中の車がある)を説明するには、あまりに広すぎるか狭すぎるかのどちらかのようです。

 しかし、私が最も驚いたのは、私を追いかけ、止まることのない一連の電線です。私が高速道路に戻った時でさえ、その横側やその場所を超えた先には、高圧線を運ぶ鉄塔が私の目線を捉えるために続いていました。

 ダニエレが車を運転しています。私たちはラジオを聴き、そして窓の外を観ながら、私は言います。「この全部の電気で何をしたらいいのか知りたいよ。この電線全部は、贅沢すぎるね」

 彼は返します。「私も知らないけど、すべて何かのためになるんだろう」

 数十キロ後でも、問題は未解決のままです。

 モデナの出口近くのレイバイでは、巨大な鉄塔がこの形のない空間に中心を捧げているようです。それはきっとコンタリーナか、他のそのような場所から来る電線を支えています。あるいは、おそらくそれはマントヴァの近くのリビアから下りてくる線なのかは知りませんが。しかし、確かなことであり、私の心に残っていることは、私たちはきっと電気を必要とするということです。

 その夕方、私は何もすることがありませんでした。あまり疲れていないので、私の娘のイラリアと一緒に地元のスタジアムでのプリンスのコンサートへ行くことにしました。私は彼の音楽には特に興味はありませんが、批評家が「私たちの時代を象徴する音楽家」と宣言しているものを見て興味はありました。

 スタジアムの外と近くの芝生は、入口に立つ巨大な投光照明で明るく照らされています。いつもの雑然とした屋台、Tシャツ、缶入りの飲み物、そして大音量の音楽のすべては、わたしたちがロックコンサートにいることを裏付けます。

 私たちはスタジアムに入ります。主催者と販売業者が期待する三万人の三分の一しか人がいません。それは面白みの欠けた空間あるいは真空のように感じます。比較的暗い場所では、巨大な音響装置や、マンション一角分の土地、そして人びとが台なしにするのを防ぐために緑のプラスチックで覆われたサッカー場を設けることができます。

 そのコンサートは始まりましたが、ファンの熱気ですら溶かすことのできない、奇妙な、氷のような雰囲気、また信じられないほどの数の電球や、スポットライト、ジェル[3]といったものもあります。少し舞台照明会社の巨大なカタログディスプレイのように見えます。

 私はデルタ地帯に帰る電線について考え、それがどこで終わるのか理解し始めます。そして、私たちの手からすり抜けたあとの風船がどこに行きつくかを知るような瞬間、私たちが思いをはせていた風船は空に消えました。

 そのショーは、私の熟考に無関心で、事件や感情なしに展開し続けています。あらゆる方向に拡がるその恐ろしい音量――私たちの背後にも拡声器はある――このすべては私たちをより関わっていると感じさせようとする試みにあるのですが、その間の照明塔は出来事を制御しようとする不吉な関門のように見えます。

 ある時点で、プリンスが彼自身の哲学的バージョンの三位一体、すなわち神、愛、セックスを掲げるとき、ステージ上に照らされた十字架があらわれます。このとき、私はこのエネルギーの豊富さのすべて、その作業と奴隷化と鉄塔の建築のすべてについて考えます。これらに利用された労働者や、認識を超えて変化した川や風景を。そして、私の前に横たわるものがかなり悲惨であることが分かりました。

 すでに一時間近く経ちましたが、ゴミだらけの巨大なゴミ箱のなかに身を潜めているように感じ始めたことを除けば、ほとんど何も起こりませんでした。そして、そこで私はじっと立って、そのすべての無意味さを考え、何かが起こることを待っていました。

 ドラムソロは数分間続き、その耳をつんざくような音は、ドラムのリズムに沿った数千の電球の点滅と組み合わされています。これが私の苦痛のピークであり、隣の人に「これほんとに好きなの?」と聞きました。しかし、彼らは返事をしませんでした。男の方は自分の時計を見て、Tシャツを売っている少女は、人が少なくて全然売れないとがっかりしていました。

 ステージの前では、多くの人が様々なリズムに悶え、ときどきプリンスからの声に答えます。「セックスは好きか?神は好きか?」 私は彼の音楽を本当に知りませんけれども、私はそれをしばしば聞いていて、それにはなじみがあります。私はすべてがちょっとしたトリックで、欺瞞――つまり巨大でグロテスクな無のパレードであるという結論に達しました。

 見かけだおしの破戒、ヒステリックな痙攣と怪物じみた背景を持つ前衛の断片との同化、そしてこれらすべてがさまよっていて、ステージを横切るピルエット[4]は、引きつけのようなそぶりにすぎません・・・。私は倦怠感に負けて、コンサートが終わる前に去ります。私がそうしようとするとき、彼は「パープル・レイン」を演奏していました。それは、ジミ・ヘンドリックスの偉大な孤独ではなく、もはや現代の恐怖だけを呼び起こします。

 私は私自身の説明を求めています。音楽は高尚から低俗まで引用に満ちているので、様々な層を聴くことから始めています。マイルス・デイヴィスでさえ、プリンスは私たちの時代の音楽家だと言っていますが、私はその説明(キッチュの復活など)においてさえ、それは意味がないと思い続けています。何百万の電球に囲まれていても、その音楽には空間も光もありません。世界の恐怖のすべてを私に感じさせたいという誰かの理由でだとしても、私はゴミだらけのゴミ箱の中に浸かることを楽しみません。しかも、私は一人でこんなに多くの電球を使うことは許されるべきではないと思います。私は好きではありません――なぜなら、結局のところ、それは他の人が鉄塔を建設したり電線を修理したりするのに何日も費やさなければならないことに依存しているからです。そして電流は絶え間ないハミングで田舎を飲みこみ、その発電所は川を台無しにします。そしてもちろん、写真を撮るとき、電柱と電線はいつもフレーミングを台無しにします。

 

‘Racconti di fotografi’[‘Photographers’ tails’], Ⅱ Manifesto, 21-22 May 1989

 

 

[1] イタリアの詩人、作家、翻訳者、起業家。

[2] ニュース映画は、時事問題などの情報の伝達及び解説を内容とする短編映画・記録映画の一種で、家庭にテレビが普及する頃まで活発に制作され、多くが長編映画とともに併映された。

[3] 色彩効果のためにステージ照明で使われる薄い半透明の膜。

[4] 片足を上げ、つま先で回転する行為。またはコマの意。

追記:コンタリーナとは、ヴェネチアの約45キロ南に位置する自治体であるポルト・ヴィーロの分離集落。