Thoughts on Jacque-Henri Lartigue 1987

Ghirri, Luigi, 2017, The Complete Essays 1973-1991, London: Mack, 128-31.

 

“Thoughts on Jacque-Henri Lartigue 1987”

「ジャック=アンリ・ラルティーグに対する見解」

 

 彼がおそらく真実で完璧な写真だと思ったのは、虐殺と戴冠式というシワの入った背景とは真逆のプライベートなイメージのかけらの山である。
イタロ・カルヴィーノ

 

 ジャック=アンリ・ラルティーグの作品を説明するために使われてきた言葉には、無垢、率直、好奇心、新鮮さ、天才、非凡、シンプルさなど、数多くさまざまなものがあります。そして、こうしたすべてには、彼の幼稚な驚き・喜びと幸福に対する感受性・資本家階級の贅沢な暮らしという失われた世界を呼び起こす驚異的な力の説明と分析を常に伴います。それらはすべて非常に的確で、適切な分析ですが、この満場一致である潮流の一方で、ラルティーグの作品は、神秘的で謎めいたものであり続けています。

 一見すると、ラルティーグの作品はとても自明のことのように見えますし、彼の動機と結果は非常に理解しやすいからなのかもしれませんが、まるで私たちは最初からすべてを正確に理解しているように感じています。すべてのものがまとまっているように思われるのは、社会的地位・出来事・時代が、よく知っているモザイク画のとてもたくさんのタイルのように現れるからです。それゆえに、その終焉のイメージの輪郭を簡単になぞれてしまうように思われるのです。しかしながら、これはほんの部分的な真実にすぎず、実際には、まるで見ることができない隠された顔があるかのように私たちから逃れ続ける何かがあります。

 これは、多くの人に指摘されているように、ラルティーグが正式な目録を外れ、公式の写真史を回避しているからだけではありません(ごく最近になって彼はその一部となりましたが)。またそれは私たちが、絵画の領域における税関職員アンリ・ルソー[1844-1910]のような著名で分類できないものに続いて、ラルティーグを前に、歴史の場に増加するあらゆる「アマチュア」の分析の困難に直面しているということでもありません。実際、ラルティーグの「隠された何か」とは、写真史に残る彼のユニークで完結したまなざしや、あらゆる方面での活動、復活の力でさえありません。

 これらはどれも謎ではありません。ラルティーグの作業は、かなり奇妙な挑戦としてあるのです。

 

「あぁ、なんて美しい! 写真を撮らないと!」などとあなたが言い始めるとき、すでにあなたは、写真に写されなければ何もかも決して存在しなかったかのように失われてしまうと考える人間の見方に近づいている。そうなると、本当に生きるためには、できるかぎり写真にしなければならないのだが、できるかぎり写真にするためには、撮影のために最適な状態で生きなければならないし、またほかにも人生のどんな時も写真撮影が可能かどうかを考えなければならない。一つ目の道は愚かさに通じており、二つ目は狂気に通じている。

イタロ・カルヴィーノ「写真家の冒険」[1952]

 

 ラルティーグの作業は、このアイデア、この常套句(クリシェ)に対して的を得た挑戦です。彼は写真にある微かな悪魔的魅惑の秘密を発見し、ちいさな奇跡を作り上げるために進んでいきます。彼は、多かれ少なかれ掠め取った日付・メモ・見解・イメージ・刹那の渦の中(いいかえれば今世紀における比類のない終わりなきアーカイヴであり、それと同時に、定義可能で定量化可能なアーカイヴとなる危険性を避けるもの)にいるので、彼自身と彼の生活の数限りない痕跡と記憶から距離を保っています。ラルティーグは、写真の秘密と魅惑とは、その正確性でも分析的記述のための細心の心配りでもないことを理解していたかもしれません。どちらかといえば、それは驚きと追憶(リコレクション)のための方法の採用にあるのかもしれません。「追憶は芸術の偉大な原理である」と[ポール・]ヴァレリー[1871-1945 フランスの詩人・小説家・評論家]は書いています。記憶ではなく、それはある特定の場の追憶よりも、むしろ追憶[それ自体]の正確な不正確を修正するのです。イメージによる[ある特定の場の]追憶ではなく、あるイメージの、ある知覚の追憶です。

 私がラルティーグの写真を常に愛している理由のひとつは、それらの平和的な外観、世界との調和のようなものの一方で、脅迫的なとまではいきませんが、それらが不安にさせる側面を決して欠いていないからです。人間はモノとともに生活するということに誰かが最初に気づいたときから、公私にわたる人間の生活においてモノと共有しない瞬間はありません。

 モノは光景の重要な部分を占めており、あらゆる方向に移動し、あらゆる空間に侵入します。こうした感覚は、ラルティーグをファッションの餌食に、あるいは単なる時代の証人にさせません。代わりに彼を時をかける私たちの友人にさせるのです。私は、ラルティーグの作品にこれが無意識に起きているとか、あるいはこじつけであるとか、遡及的解釈であるとかを考えません。それどころか、私が思うに、世界についての彼の驚きとは、大人の世界においてはこの「モノと一緒に暮らす」ことが弱さの現われであるという発見に、大きく由来しているのです。

 ラルティーグの純粋な見方とは、世界の脆弱性と、完全に成長することを避ける傾向を観察することであり、大人の世界の不器用さとグロテスクさを魅力的な何かに変える見方を引き出すのです。彼の作品は、俳優の顔が侮辱や哀愁を決して伝えてはならない、異様なサイレントコメディーのようです。その代わりに、いうなれば、パイが彼の顔にまったく当たることなく奇跡的に空中に浮かんでいるときの驚きの感覚を記録しているのです。

 これが、ラルティーグが外の世界にアプローチする方法です。身振り手振り、出来事、モノの終わりなきカタログを通して、解釈しようとするのです――目に見える姿、形の熟考に生きたのではなく、むしろ人間と彼らのモノによってこの空間がどのように満ちているのかという観察に生きた人生の息をのむような日記をもって。

 彼のしたことは、旅であり、時間の中での活動です。そして、出来事・瞬間・イベントの詩学、外観という驚くべきもの、人生という映画のなかの一連の無数のフレームとしての写真の概念といったものに向いた、彼のあらゆる変化と斬新さへの注目と相まって、ここに日記またはアルバムというアイデアが生まれました(つまり、彼自身の人生を写真に撮ること)。

 

 P.S. 私はラルティーグが同業者たちによって、もっともひろく愛され、尊敬される写真家であると信じています。しばしば、私はなぜなのか思いめぐらしていました。おそらく、ラルティーグについてのその理由とは、私たち全員が自由なまなざしを認めることができ、[第一人者として]現れうるあらゆるパノラマを一掃したからでもありますが、しかし何よりも、世界の無限大さとそれを表現する無限の方法と可能性に同時に惹かれるまなざしであるからです。

 

Jacque-Henri Lartigue, Exhibition Catalogue, Reggio Emilia 1987