‘∞’Infinity 1974

Ghirri, Luigi, 1979, “‘∞’Infinito(1974)”, Luigi Ghirri, Parma: Università di Parma, 82.(2017, “‘∞’Infinity 1974”, The Complete Essays 1973-1991, London: Mack, 49.)

————, 2017, “Infinity”, Luigi Ghirri: The Map and the Territory, London: Mack, 206.

 

「‘∞’無限 1974」

 

 私は「自然」写真が好きではありませんでした。これは、自然がもっとも神秘的で形而上学的な側面でポートレートされるすべてのものから、色や記号の単なるかたまりへの意味の抽象的強制にまで、あらゆる種類の自然写真にあてはまります。それらのイメージや「自然な瞬間」を捉えるための必死な試みに、私はいつも写真的言語それ自体の核心そのものに迫る巨大な逆説に遭遇していると感じていました。カメラ・オブスクラの発見のルネサンス――都市の知的サークルで起こったもの——は「自然の」視覚が構築物であったということを明らかにしました。彼らが発見したそのイメージとは、外側の世界の視野が小さな穴を通過したとき、閉じられた空間のなかで逆さまに形成されるものでした。この発見はそれまでの表現している、または知っている「自然」の景色を否定しました。

 写真の歴史には素晴らしい事例がありますが、私の信念とは矛盾するようです。それらのエピソードが、美的現象へ、あるいは閃きや啓蒙ではなく絵画や彫版術の視覚的言語へと連れ戻す部分的な事例、つまり「捉えられた瞬間」にすぎないこともまた事実です。

 私は一年間毎日空を撮影することに決めたとき、それとともに自然現象の翻訳不可能性に立ち向かおうとしました。『無限』における一年間の合計365枚の写真のシークエンスは、空のイメージを構成するには不十分です。反復や、計画された繰り返しや連続による写真的言語をもってしても、自然界のイメージを捉えるには十分ではないのです。

 したがって、『無限』は空の潜在的色彩の世界地図帳を構成しています——365の起こりうる空。カレンダーのような、記録文書化のより正確な形式に従ったとしても、私が制作を完了した1974年という太陽年は、後から考えても分類したり認識したりすることが不可能なままでした。

 それゆえに、この作品は写真の限界を表現します。それでも、写真が価値や意味を得るのは、物質世界、自然、人間におけるこの不可能な境界のなかでのことです。絶対的な言語ではなく、現実の非閉鎖性を私たちに認めさせることによって、自然性と自律性を見出すのです。