Still-Life: Topography-Iconography 1982

Ghirri, Luigi, edited by Paolo Constantini and Giovanni Chiaramonte, 1997, “Still-Life: Topografia-Iconografia (1982)”, Niente di antico sotto il sole: scritti e immagini per un’autobiografia, Torino: S.E.I., 47-8(=2017, “Still-Life: Topography-Iconography 1982”, The Complete Essays 1973-1991, London: Mack, 64-6.)

 

静物——地形-図像 1982」

 

 私の以前の作品の多くでは、現実と妄想、本質と外観の問題を扱っていました。私は現実がだんだん巨大な写真もしくはフォトモンタージュになっていると気づき始めました。この作品の鍵となる要素は、おそらくいつも私が持っていたあらゆるものを内包するような場所やモノ、すなわち、百科事典、博物館、地図に対する愛着です。私はまるで百科事典を閲覧するように制作しました。いくつかの奇妙な偶然によって、そのページは周囲にある現実の要素、すなわちモノ、影、外面、反映、記号、傷、時間の経過となるのであり、トランプで遊ぶように混ぜ合わせることができました。

 この沈黙する図形と現実の喧騒との対話において、イメージは別の完全に新しい意味を引き受けます。それらのそれぞれが、視覚を刺激する物質世界における一瞬と関連して存立しており、私たち自身の時間における歴史と存在の両方を証明します。

 この作品の文脈においては、写真は直接的な堆積物によって作用する言語となり、記号の世界が物質世界と合わさるときに起こる意味の変化のおかげで、それら二つの要素が結合するとき、元のものをはるか超えゆくある種の熟考が可能となります。

 写真は単なる複製物ではなく、カメラも物質世界を停止させる単なる光学装置ではありません。写真は再生産と解釈との差異の言語です。しかしながら、かすかに、写真は存在し、数限りない想像上の世界を生み出します。私たち自身の視覚によって完全に描写されているように見えるモノでさえ、一度表象されると、まだ書かれていない本の空白のページのようになりえます。

 歴史と地理学を一つにし、集合的で個人的な概念が混ざりあい、意図的に些末な写真が私たちの考え込んでいる他のものとともに見つかる旅——奇跡への憧れがともなった不変のものへの旅——にちなんで、私はこの作品を「失われたオリジナルを求めて」と呼ぶこと、あるいはそうと名づけることができるでしょう。

 すでに見てきたもののすべてを見ようとし、まるで初めて見ているかのように観察しようとする私の試みは、おこがましいか理想家のようにみえるかもしれません。しかし、これは私がもっとも興味を持っていることです。

 多くの写真にたいして、意図的な憂鬱を感じるかもしれませんが、そうだとしても私に代わってより強い孤立を要求するアイロニー接触によって、これを抑えることができます。しかし、私は遊びと献身の要素を忘れることなく、そして厳格な制限を設けることなく、最大限の自由を持ってこの作品に着手しています。

 その写真群は、すでに見てきた他の写真を参照しているがゆえに、私たち自身の記憶に保存されているような、揺れ動くイメージとなります。

 以前に「静物[1]」について話し、私の意見として、いくつかのモノは記憶を吸収することにとくによく適しているようだと言いました。それゆえに、私が撮影した場所やモノは本当の「記憶地帯(ゾーネ・デラ・メモーリア)」であり、つまり、現実が一つの大きな物語に変わったことを他のものよりも強く示す場所なのです。

 

Topographie-Ikonographie/Topography-Iconography, Camera Austria, No. 7 (1982), pp.23-33. 「コダクローム」の紹介

https://asaono.hatenablog.com/entry/2022/01/22/213518

の一部の繰り返し、その後「静物」と「地形‐図像」に関する注記が続く。テキストのオリジナルのイタリア語版は見つかっていないためイタリア語に翻訳されて出版された(Ghirri 2017: 234)。

 

[1] 「Still-Life (1975-1979)」のこと。

Still-Life 1975-1979 - asaono