Identikit 1976-1979

Ghirri, Luigi, 1979, “Identikit (1976-1979)”, Luigi Ghirri, Parma: Università di Parma, 84-5.(=2017, “Identikit 1976-1979”, The Complete Essays 1973-1991, London: Mack, 53-4.)

————, 2017, “Identikit”, Luigi Ghirri: The Map and the Territory, London: Mack, 302.

 

「アイデンティキット[1] 1976-1979」

 

 家の内側は、つねに「プライベートな」場所であり、住人の生活におけるもっとも親密で個別的な出来事の目撃者である。私たちは、写真の面に、突然の風に波立つカーテン、明るい部屋へと続く扉がある暗い廊下、薄暗い光のなかに見える整えられていないベッドを示している終わりのないイメージを思い浮かべるかもしれない。これらすべてのイメージにおけるやわらかく落ち着いた光は、間違いなく家に関係する隠れ家(シェルター)や庇護という甘美な感覚を暗示する。これらすべては、グロテスクで身の毛もよだつ出来事でいっぱいの恐怖の家――私たちの日常的拷問の監獄――を呼び起こす、むき出しの壁のある家、あるいは象徴的なモノが散らかった家というイメージと、すぐに容易に対照させることができるでしょう。この「良いもの」と「醜いもの」に関するステレオタイプの交替に対して、家庭空間の現実の住人たちはテレビに目を向けることで対応します。テレビは日常のドラマを盛り上げるために家の中に入ってくる地球外存在のようなもののように機能しており、日常の研鑽のみが「良い」と「悪い」についての調停を申し立てる弱々しい社会にとってはとても大切なのです。

 この写真のシリーズにおいて、私は自分の作品の精緻化や通常の慣例と所作という日常の鍛錬の部分のすべてがある自分自身の家を使う方法を強調したいと思いました。このセルフポートレートで、モノ(本、レコード、ほか)が、私の興味、知識や想像力、読書に費やした時間、音楽を聴くことや旅行を計画することの証拠となることについて私は考慮しています。それゆえに「アイデンティキット」は、私が生み出した作品と、私が将来実施するために計画する作品についての繋ぎ目として機能します。

 私はさらにまた、「自由な」けがされていない率直な視覚への信仰が絶対的に不可思議であると気づいたということについて述べたいと思います。実際には、媒体としての写真の選択には、私がこれまでに本にどのように取り組んでいるかを明らかにするということをわきまえておく必要があるだけです。私の視覚のあり方は、あらゆる他の可能性のある視覚と同様に、すでにイメージの歴史に属しています。

 基本的に、私はそれらの写真を、自分自身を表象する行為というよりも、自分自身を提示する行為として見ています。アルバムにおいて私たちが見るものはすでに過去のものですが、一方でその本は未来に横たわります。すなわち、私たちは明日であるようなものです。

 これが家族アルバムの記憶、すなわち私が住んでいる空間の物語、私が好む人びとのイメージ、ほかの個別的なイメージを通じてセルフポートレートを引き出さないことを決心した理由です。そのようなイメージは単純に過去の再評価、プルーストの誤解となります。そのかわりに、私は現在を証言する記号を通して自分自身を提示しようとしました。

 タイトル「アイデンティキット」は、構築された顔写真をあらわす言葉であり、より正確で詳細なポートレートが得られるまで、可能な限り更新されている状態にしようとするイメージ、典型的な顔の特徴から組み立てられたイメージ、目撃者が覚えている細部を統合しているイメージをあらわす言葉です。ここに作り出されたすべての写真は、直接的な経験から出てきていますが、かなり避けがたい、身の立て方についての意識によって取り持たれているものであり、それは思考と視覚が交差する場所である歴史の道において、しばしば他人に属しており、無視できないものです。

 私は直接的な経験が見つかるのは、まさにここ、反省的な関心、非経験の領域においてであると信じています。なぜなら、本のなかにいることは必ずしも思考の内向きのスパイラルを引き起こすわけではありませんし、むしろ、物理的世界を把握し、よりはっきりと見るための見晴らしの良い場所となりえます。

 

[1] バラバラの要素から構成された人物像、モンタージュ写真、あるいはモンタージュ写真作製装置。