f/11, 1/125, Natural Light 1970-1979

Ghirri, Luigi, 1979, “Diaframma 11, 1/125, luce naturale(1970-1979)”, Luigi Ghirri, Parma: Università di Parma, 73-4.(=2017, “f/11, 1/125, Natural Light 1970-1979”, The Complete Essays 1973-1991, London: Mack, 34-6.)

 

「f11、1/125秒、自然光[1]

 

 このシリーズは、私の他の作品のように、その最初に設定される作成方法やはっきりとした作成期間さえありません。それは他の作品と一緒に並行して(そして交差するように)、トピックやテーマに関する大きなシリーズへの進行中の分析の部分として取りかかられており、それらへの直接的な関係性において明確にされました。特にこのアプローチは写真全体でそのまま高く評価されているテーマ—「人物〔写真〕の」ジャンルに適しているようです。

 写真の多くは報道のジャンルや、一般的に考えられている「アメリカ人の」写真の特定の種類に関連する可能性があります。しかしながら、私の意図はかなり異なります。

 一方で私は〔アンリ・〕カルティエブレッソンの理念を受けつけず、意味がないとか啓蒙的でないというのと同じその有名な「決定的瞬間」に反する論点を見つけます。実践的な視点から、これらの批判が理論的に聞こえたならば、新しいアメリカ写真のイメージ—〔リー・〕フリードランダーから、〔ゲイリー・〕ウィノグランドをとおり〔ジョエル・〕メイロウィッツへ、そしてポートレートや〔ウーゴ・〕ミュラスによる他の作品―を読むことは不可能でしょう。時間の経過に直接的に関係しない側面を扱うときでさえも、写真はいつもその写真の瞬間—本当の時間―と同時に起こる撮影者によって選ばれた内側の瞬間との一致においてそれ自体を表現します。作業を計画することは決定的瞬間を取り除きません。なぜなら、とても明確にされた選択や企画があったとしても、ハプニングの機会を除去することは不可能だからです。

 それゆえに私は一度「決定的瞬間」を避けられないものとして(明らかなことですがこれにより線形時間の概念の検閲をするのではありませんし、これはしばしば無意味な写真スケッチの詰合せに終わります)や、写真言語の内部構造の一部として受け入れ、私はかわりにイメージの連続にある関係性に集中しようとしました。すでに確立された物語がなくても、無作為に想像されたものさえなくても、そのシークエンスはなおそのうえにイメージたちのあいだでの相互関係の瞬間を促進させ、私がしていたことをはっきりさせてくれました。解放する言語としての写真という私の理解はおそらく重要な役を演じ、作品全体にあるコンセプトへのあらゆる種類の「検閲」を課すことから私を守りました。

 矛盾として現れるであろうルール(しかし、それは写真撮影という行為そのものによって課せられる制約です)のなかで自由を探すことにおいて、私は事前に、美的であるか言語的であるかどうか、骨を折る努力となる可能性のあるといったジャンルやスタイルの選択をしていること、そしてそのような選択は表現力や公平性の価値をともに喪失へと導くことに気づきました。したがって、私はことごとくジャンルやスタイルの選択を避けてきましたが、それらがその性質上断片的である言語(写真)をさらにバラバラにするかもしれないからです。

 私はつねに気配りや帰属意識に焦点を当てた世界を描き出すことにもっと興味を持っています。この制作についてよく参照することで、私は錯覚のように見えるもの、儚いもの、そして人びとの暮らしのなかで明らかに成文化されていない側面が前面に出ることにおけるあらゆるそれらの状況に興味を持ちました。余暇や気晴らしのような瞬間―特にそれらが写真を撮るという行為と似ているからです。ビーチでの、アミューズメント専用の空間における、人間—それらは人が日々のアイデンティティを欠いている瞬間であり、解放されたとか、束縛されていないとか、より本物の性格といったものを帯びます。

 このシリーズの写真で人びとがとるポーズ—凍った、ほとんど彫刻のような—は人々がそれ自身のマネキンになったといったことや、存在しなくなったといったことを提示するためのものではありません。むしろそれは、写真に撮られた人はつねに写真以上のものではないという考えを提示するためのものです。

 私はたくさんの人びとを彼らが絵や道路マップや行き先案内を見ているあいだに後ろから写真に撮りました。これについて、他の場合と同様に、撮影者から被写体へ、見られている人から見ている人になることへ、私はその人物に可能な限りのアイデンティティを与えようとしました。そこには私たちがつねに、その全体で、完全に理解していない、架空の背景や風景に対してセッティングされたイベントの役者であるという感覚があります。私たちが私たちのアイデンティティの一つを写真に預けるときでさえも、私たちはつねに難しいものであるアイデンティティへの探検を忘れるべきではありません。それゆえに、私は多様性の存在や、一つのイメージ以上で存在しているものに挑戦し、強調したいのです。このシリーズで、人びとがホリデースナップのためにポーズをとるとき、はっきりすることは、別のイメージの存在、私たちのものとよく似ているもの、しかしながら今まで見たことのないもの、そして私たちが見ることのできない絵はそれらがそれら自体を明らかにしたいと願うイメージを保持しているということです。

 このシリーズの終わりに向けて、写真は絞り(ダイヤフラム)、鏡、サイネージ、ガラスのシートの使用を通じた私の直接的な観察からだんだんと隠れる人びとを際だたせます。私は撮影者という私自身の立場を隠そうとはしません。私が写真を撮る瞬間、その光景はレンズの重なりを通過し、それら—ガラスのシートのような—は私に被写体をわずかに垣間見せます。私は生活の証拠をつかむ隠れた観察者というアイデアが嫌いです。同じく私は柔軟性のない目でいる感覚を、人類のその顔をまっすぐに見つめることを、キャスティングから逃れられないことを楽しみません。

 どちらかといえば、私はこのシアター—背景に対峙し、舞台の袖や、俳優とのあいだ—にいることを信じるほうを好みます。写真家としての私のルールは決して著作者としてのルール、記録者としてのルール、監督としてのルールではありません。私のルールは、私が撮った写真かどうかの見分けがついてはいけないということです。

 

[1] 「〈f11、1/125、自然光〉と名付けたのは、それが屋外撮影でフィルムが像を読み取る古典的な数値だからです」(Ghirri, Luigi, A cura di Giulio Bizzarri e Paolo Barbaro con uno scritto biografico di Gianni Celati, 2010, Lezioni di fotografa, Mecerata: Quodlibet.(=2014,萱野有美訳『写真講義』みすず書房,66.)。