In Scale 1977-1978

Ghirri, Luigi, 1979, “In Scala (1977-1978)”, Luigi Ghirri, Parma: Università di Parma, 83-4.(2017, “In Scale 1977-1978”, The Complete Essays 1973-1991, London: Mack, 51-2.)

————, 2017, “In Scale”, Luigi Ghirri: The Map and the Territory, London: Mack, 302.

 

翻訳「縮尺」

 

 私はこの作品をその解釈がすぐに思い浮かぶように「縮尺」と名付けました。縮尺は、モノの空間的次元であるモノの実際の寸法を記録したり確認したりすることに用いられる決まり事です。それは製図面から建築の段階へ移行するための媒体であり、あるいは逆に、物質世界をグラフのサイズに縮小させます。したがって、縮尺は差異をさし示します。

 この三次元の世界地図帳(写真展示会自体のこと)に、イタリア[リミニの、アミューズメント施設、イタリア・イン・ミニアトゥーラ]は、建造物、山、廃墟、街区、教会や湖のセットとして縮小されました。すでに「おもちゃの国」に関連して言及しましたが、縮尺の変化にはミクロとマクロの二つの両極端の可能性があり、多くの場合、乖離した状態の全体を示すために、並べて表現されます。

 時に、私たちはリリパット国のガリバーのように感じるかもしれません。しかしさらにまた、それと同時に歴史と領土にある歴然とした関係性を考慮すると、私たちは時間という範疇でとても広大な領土を縦横無尽に移動していることを忘れずにはいられません。神話、歴史的な場所、有名なランドマークの称揚は、愚かさを育む感性を作り上げます——すべてを一度に見るという逆説、歴史的時代も地理的距離も同様に引き裂くまなざしの逆説。それは巨大なフォトモンタージュとして現れます。背景にモンブランがつなぎ合わされた、シエーナのパーリオ[1]の〔カンポ〕広場は、例えば、私たちを引き込み、楽しませます。しかし、夕日がその光をマッターホルンの頂に放つと、ドロミーティ山脈がピンク色に変わり、疑わしさという感覚が忍び寄ります。

 おそらく、真実が隠された完全なフィクションであるこの空間そのもののなかにあるのでしょう。いわば、この場所、サンピエトロ大聖堂を見ているこの場所だけにあるのであり、私たちは、自分たちが持っている因習的スタイルによって表現されたイメージを参照するのではなく、現実に見られるのは、偽物を認識し、私たち自身の知覚とすることです。決まり文句(クリシェ)、コピー、ステレオタイプをむき出している広場の前で、カップルが自分たち自身の写真を撮っています。私たちはその公園を歩いていくときに、自分たちがこれまでにしてきた旅を喚起するスタイルを認識しているのであり、私たちは現実とその二重性へと道を引き返すのです——その逆ではありません。

 この再生産の終わりなき過程で、私たち自分たちの蜃気楼の厚みを計測するのかもしれません。そして、私たちの影がヴェッキオ宮殿に伸びる間、同じように現実がその二重性の上に投影され、それによりその正体を暴きます。その仮面はあまりにも明らかなので、そのままというわけにはいきません。その顔を見ることについて私たちを妨げるものはありません。

 この私たち自身の歴史的なものの表象において、差異がはっきりとその前面に現われているのであり、イメージと記憶の層は探りを入れられた現実の要素を隠すことはできません。こうした絶対的非空間的・非時間的ではない歴史的単一化において、案内標識は本の見出しや地図記号や観光案内のように機能します。

 それらのミニチュアの山は縮尺されえませんし、私たちはそれらの建造物の内部を訪れることはできませんが、私たちはまだ[ここ公園で]ベンチに座り、時間を過ごしたり、自分たち自身のなかをさまよい続けたいのかもしれません。そして、そこに多くのイメージが置かれていることに気づきます。いわば、自分たちの想像上の旅をまだまだ歩きまわり、私たちは一連の足跡をたどるのかもしれません。そして、山と同じ高さまで到達し、それらの向こう(壁の裏側)を見るのです。

 したがって、見ることは、探りを入れられた別のイメージを見ようとするまなざしをともなった横断的読み取り、交差する歴史、芸術、自然となります。ここ、一人の長い影がその広場全体を覆うであろう場所――この偉大な屋外の劇場では――その場限りで、演者たちは舞台背景よりも背が高いのです。

 

[1] イタリアのシエーナで開催される競馬のこと。