0.25km 1973

Ghirri, Luigi, 1979, “Km. 0,250(1973)”, Luigi Ghirri, Parma: Università di Parma, 70-1.(=2017, “0.25km 1973”, The Complete Essays 1973-1991, London: Mack, 31-2.)

————, 2017, Luigi Ghirri: The Map and the Territory, London: Mack, 148.

 

「0.25km 1973」

 

 私は1972年に始めたこの作品で、公有地における歴史的に新しいイメージの自然(大きさと反復する規模の両方に関して)を強調しようとしました。都市環境に浸透する広告という公然と侵入する自然について考慮することは別として、私はこの現代的図像の連続的で反復的な自然を調査するために、主となる作品群のなかの一シリーズを用いることに決めました。なぜなら、とても難解なメッセージを届けるために使われる時でさえ、そのイメージはまったく同じ方法で考えられ、構築されるからです。

 その〔調査〕結果とは、私たちの時代のためのフレスコ画であるということであり、表面的には、私たちがたいへんよく知る教会や公共の建物にあるフレスコ画の類似物です。都市の壁につねに存在するイメージ、それらの連続において、私たちはおそらく私たち自身の生活を読み取ります。しかしながら、私たち全員が識別できるもの(教会のフレスコ、中世の宮殿、など)によって以前から存在し共有されるリアリティを表示することの一方で、そこで私たちが読み取るものは、その裏側や、先験的なものの反映や、注意深くプログラミングされた生活です。

 (展示する)それぞれのイメージのなかで、私は広告イメージの連続する自然と視覚への麻酔投与〔感覚喪失〕の習慣を暗示します。しかし同時に、私はイメージの似ているものの組み合わせのなかで、そのわずかな変化と配列を明らかにすることに興味を持っています。これらの首尾一貫しつつ、つねに可変的な要素において、私たちは「特集された」製品それ自体の自然の何かを見ることができます。それは、その本質において、均一で取り替え可能であるということです。何よりも、機械的なまなざしの単純な繰り返しを避けることが重要なのです。

 先にフレスコ画について話しましたが、なぜなら私が、その頭のなかでフレスコ画の意味や意図をめぐり、私自身の作品を解釈するための鍵を見つけようとしているからです。フレスコ画が、個別的かつ集合的なアイデンティティの要素であったのと同様に、「0.25km」にわたって繰り返されるトリプティク(中世西欧で生まれた三枚組の祭壇画であり、ルイジが写真収集した三枚一組の街頭ポスターのこと)は、私たちに個別的かつ集合的イメージを提供します。しかし、フレスコ画の場合、その使用の時にはさらにまた意識と再認識の活性化がありました。イメージのある現代の壁の場合、一般的に車の窓から読み取られ吸収されるので、それはむしろ加速する動きのなかで映画の一部を観ることに似ています。その枠組み—受動的に受けとられるぼんやりとしたイメージの連続—は私たちの批判的能力を非活性化し、偽りの認識のみに導きます。これを理由に、私はこの作品を写真のシークエンスとして提示することを選びます。さらなる映画的アプローチはそれらの効果を復権させるだけであり、解釈への何らかの試みを妨害します。私の他の作品では、単純に映画的言語との類似性を避けるために、私はいつでも可能なときにはシークエンスの使用をつねに制限しようとしました。

 私が生み出したシークエンス—とくに「カタログ」—は連続性の感覚を特集し、つねに変化しうるが首尾一貫するものを強調しており(そして逆もまた然り)、そしてそれはこの理解の流れと写真的解釈においてのみに真価が認められうるものです。私はその形式のすべてにおいて、時間に基づくモンタージュを避けました—なぜなら単純にそれは映画的言語にあたる部分であり、それ自身の連続性の増大よりもむしろ、二つの固定された瞬間がその前と後で意味を見つけるところだからです。