Kodachrome 1970-1978

Ghirri, Luigi, 1979, “Kodachrome(1970-1978)”, Luigi Ghirri, Parma: Università di Parma, 66-7.(=2017, "Kodacrome 1970-1978", The Complete Essays 1973-1991, London: Mack, 23-4.

 

「コダクローム 1970-1978」

 これは私の最初の作品ですが、それはともかく、明確ではっきりとした構造を持つ最初のものです。そして、それが私の最近の多くの作品が基づき作り上げられている第二の現実への注目によるものであるという点で、重要な契機を示しています。このシリーズは、女性、男性、カップル、子ども、動物、儀式、文化、有名人、風景、そして自然という明確な項目により構成されています。

 私の焦点は、直接的な経験の崩壊―私たちの生活環境におけるイメージの侵略―にありますが、それはここに始まります。この作品で、私は真実と虚偽や、私たちとのギャップ、そして私たちが本来あるべき姿のイメージの分析を―最終的に真実の否定と隠蔽について批判的に考えるために―提供しようとしました。この本当と嘘についての区別はますます困難になり、すぐに目に入ってしまうものを乗り超えていくことは次第に不可能になっているようです。

 私は、街路や店頭のショーウィンドウなどといった公共の場にあるイメージを選びましたが、それはそれらにエンブレムのようなとか、象徴的な価値や、型や決まり文句に還元できない複雑性の度合いを含ませるためでした。

 現実と作り物、存在と外見というテーマは、直接的な経験の崩壊に注意を向けさせます―これはイメージの世界に移行させます。そして、それは私たちに日々、表層の奥を見ること、本当と嘘について区別することの努力を要求します。直接的な経験の回復は、崩壊が起こったという気づきからのみ、始められます。多くの人が、写真について書くときに、それはいつもすでに分かっていること―それは普通の知識である―を示しているというのは、おそらくこの理由のためです。私はこの主張が、写真はいつも私たちがすでに知っていると思うことを示している、とかわりに言うことで正されるべきだと思います。

 私はたいてい道を歩きながら偶然発見された図像(イメージ)の断片によってこのシリーズを完成させましたが、最後の写真が舗道の上にある折りたたまれた新聞に印刷された次の言葉を含んでいることは偶然ではありません。‘come pensare per immagini’(「どのようにイメージを通して考えるか*1」)。この言葉には、ジョルダーノ・ブルーノ[哲学者で修道士]の「考えることはイメージで推測することである」という言葉と同様に、私のすべての作品の本質があります。

 『コダクローム』は、類似物(アナロジー)の存在についてではなく、類似物の掛け算(現実の類似物としての写真、ひいては類似物の類似物としての私の最近の写真)について報告し、反省の契機としてこれを提供することをめざしています。

 写真の写真を撮ることは鏡合わせの瞬間になります。そして、その二つのイメージはお互いをうち消しあってしまうのであり、それゆえに物質世界の物質的な性質を強調します。

 多くの人が(そしてこの作品に関連してだけではなく)これらの写真をフォトモンタージュ[1]と勘違いしました(かわりに、私はそれらを「フォトディスモンタージュ」と呼ぶ傾向があります)。なぜなら、彼らはすでに存在している物質世界それ自体という巨大なフォトモンタージュに敬意を払っているからです。

 いずれの場合にせよ、写真はその縮尺の変化や、一定に並べられることや、もはや存在しない現実の意識的(?)無意識的(?)イメージの両方を構成するという点で、つねに超現実的なものです。現実は巨大な写真に変換されました。そして、そのフォトモンタージュはすでに存在しており、それは現実世界と呼ばれています。

 

Luigi Ghirri, Milan 1979

 

[1] いくつかの写真を合成して一つの写真をつくること。

*1:『写真講義』61頁