Kodachrome-Forward 和訳

Ghirri, Luigi, [1978]2019,"Forward", Kodachrome, London: Mack, 11-2.

――――, 2017, "Kodachrome-Introduction", The Complete Essays 1973-1991, London: Mack, 18-9.

 

ルイジ・ギッリ『コダクローム』「前文」和訳

 

 1969年、月へ向かうスペースシャトルから撮影された一枚の写真があらゆる新聞に掲載されました。それは、最初の世界の写真でした。

 人間が数世紀にわたって追いかけたそのイメージは、私たちの目に届けられました。それは、現時点にある先行するイメージのすべて、不完全な書物のすべて、解読された記号と解読されていない記号のすべてを含んでいました。

 それは世界のイメージであるだけでなく、落書き、フレスコ画、絵画、印刷物、文章、写真、本、映画などといった世界のあらゆるイメージを封じ込めたイメージでした。

 同時に、世界の表象であり、たった一度で世界のすべてを表現したものでした。

 しかし、この全体的な光景、このすべてのものの再記述は、象形文字全体の翻訳可能性を再び無きものにしました。

 一度にすべてのものを見ることの不可能性に直面して、すべてを封じ込める力は消え去りました。

 見るため、封じ込めるためのこの出来事とその表象は、永遠の問題を解くには十分ではないものとして、人間に対し再び現れました。

 しかしながら、この総複製の可能性は、象形文字を解読する可能性を垣間見せてくれます。私たちには疑念と世俗的な神秘という二つの極がありました。原子のイメージと世界のイメージは、最終的にお互いの顔と顔を見合わせています。

 無限小と無限大とのあいだにある空間は、人間とその生命、自然という無限に複雑な問題により満ちていました。

 それゆえに、情報や知識の必要性は、その二つの極限から生じており、現実あるいは象形文字を翻訳し、解釈できるようにするために顕微鏡と望遠鏡のあいだを行ったり来たりするのです。

 

 私の作品は、象形文字というこの総体の記号と意味――簡単に識別できる現実や、非常に象徴的な意味をもつ現実だけでなく、思考、記憶、想像力、幻想的または疎外された意味について——の解釈と翻訳への欲求と必要性から生まれています。

 写真は、ここで説明しようとしている言語の特徴などをもとに私が設定する目的にとって、非常に重要です。

 フレーミングした部分を囲む空間を消去することは、私にとって提示された部分と同じくらい重要であり、この消去のおかげでイメージは意味を帯び、測定可能になります。

 同時に、イメージは消去の可視的部分としてあり続け、表象されていない現実の残りの部分を見るように私たちを誘います。

 完全性または完成されたものというアイデアを除いてではありますが、表象と消去というこの二重の側面は、制限の欠如を喚起する傾向があるだけでなく、区切ることができない何か、つまり現実を示します。

 一方で、現実の宇宙を見ることや洞察することができるようになることは、定義され決定的なものとして私たちに与えられている既知のすべての文化的表象とモデルを抜き去ってしまうのであり、私たちの現実と生活との関係とは、衛星からの写真と地球そのものとの関係と同じです。

 それゆえに、不確定性を持つ写真は、ある種の真実の価値が与えられた明確な表現の象徴性から抜け出すことを可能にするための、特権的なテーマとなります。

 現実(その完全体はつねに捉えどころのないもの)を形成するものの象徴である時間と空間の分析の可能性は、こうして写真に許されます。それは断片的な性質が境界を定めることができないもの、すなわち物理的存在に近いためです。

 以上の理由で、私は、写真と「決定的瞬間」、写真の言語の研究や分析(それ自体を目的として)、美学、概念またはアイデアの集積、詩人の感情、学術的な引用、新しい美的信条の探究、スタイルの使用には興味がありません。

 私は、はっきりと見ることに専念しています。なぜなら、すべての起こりうる作用に興味を持っているからであり、私は出会った象形文字を、ある時点から別の時点へと見たり、認識可能にするために、全体から何かを区別するのではなく、全体的観点において捉えます。

 

 現実、フィクションと代用物、あいまいな側面、詩的なもの、疎外との日常的な遭遇は、迷宮から抜け出す方法を否定するかのようです。その壁は日に日に幻想的なります...私たちとそれらとを混同するほどに。

 私が自分の仕事に与えようとしている意味は、人間、対象、生活のイメージから、人間、対象、生活のリアルなアイデンティティを最終的に区別できるように伝えることを可能にするための知識のあるべき姿を志し、到達することが、まだどのように可能であるかを検証することです。