The World Caressed by Walker Evans 1985

Ghirri, Luigi, edited by Paolo Constantini and Giovanni Chiaramonte, 1997, Niente di antico sotto il sole: scritti e immagini per un’autobiografia, Torino: S.E.I..(=2017, “The World Caressed by Walker Evans 1985”, The Complete Essays 1973-1991, London: Mack, 99-102.)

訳・注は筆者による

 

「ウォーカー・エヴァンズに愛撫される世界 1985」

 

 一軒の古い家屋、影になっているポーチ、屋根瓦、昔のアラブ風の装飾、壁に寄りかかって座っている男、人気のない街路、地中海沿岸に見られる樹木(チャールズ・クリフォード撮影の「アルハンブラ」)。この古い写真(1854年)は私の心を打つ。私はひたすらここで暮らしたいと思う。・・・私にとって風景写真は(都市のものであれ田舎のものであれ)、訪れることのできるものではなく、住むことのできるものでなければならない。・・・そうした大好きな風景を前にすると、いわば私は、かつてそこにいたことがあり、いつかそこにもどっていくことになる、ということを確信する[1]

 

ロラン・バルト,『明るい部屋』,1980

 

 ロラン・バルトの意見は、ウォーカー・エヴァンズの作品へのアプローチには必要不可欠です。ばかげた表向きの歴史にもっとも軽視される写真家の一人ですが、彼は今世紀の写真においてもっとも重要な部分をはっきりと表現しています。

 この軽視はそもそもの目の悪さだけに起因するのではなく、エヴァンズの作品がひとつのジャンルに厳密になり、狭い分野となり果てることもなく、加えて偽りの神話や神話学や、便利なカテゴリーにも適さないという事実にも起因します。実際、エヴァンズは完全にひとりきりで仕事をした孤立した人物ですが、以前には知られてなかった意識、価値、深さを写真にもたらしました。

 彼は偉大な「古典」であり、ファッション、スタイル、歪曲、あるいはまぬけで表面的な発明からはかけ離れています。彼は慎ましい感性と前例のない品格を持って、空間、モノ、風景を私たちのまなざしにさらけ出す作業に専心する数少ない20世紀の写真家の一人です。

 私たちがエヴァンズの作品に本質的でないものに気づくことがないのは、私たちのまなざしへの解釈や妨害がないからであり、それゆえに、曲芸や無能なそぶりのない、強制的な形式のないアイデアと関わることができます。

 エヴァンズの作品において、私たちは自由なまなざしを持つことのみにより可能となる知識と単純さの絶妙なバランスに気が付き、そして規定の構造から解放されます。

 私たちが判断力喪失の感覚による写真の大多数—それらは私たちに関係のないイメージであり、私たちにとって必要不可欠ではないイメージである―を見るときに感じる別離の感情、本質的でないという感情。エヴァンズでは、これはまったくありません。彼の作品で私たちは愛情深い関係のなかに入り込み、ほとんど恋に落ち始めた段階のようです。その場所、空間、そして顔は、すぐに認識可能であり、親しみやすく、住むことができるものです。

 私たちがエヴァンズに抱く、暴力のない、衝撃のない、視覚的で感情的であるが、わざとらしさのないといったものは、世界に対する優しさの表明であり、統合と調和の感覚です。家の屋根から壁の文字まで、その風景[2]のどこかしこも、彼の愛情のこもった眼を経由した認識を待ち構えているようです。その家の向こうには、通時的にも一時的にも、亡命者への障壁はありません。

 歴史家は彼の作品にポップアートシュールレアリスム魔術的リアリズムミニマリズムの先取りといった多くのメリットを指摘するかもしれません。しかし、これらはどれもあまり重要ではありません。問題となるものはエヴァンズのイメージを作り上げる方法であり、それは厳密に遠近法的で正面を捉えながら、それらの明晰さと透明性を通して、厳密な幾何学的コードを遵守しつつも、このことを忘れるかのようです。彼の写真ではすべてのものが自然に見えます。砂漠や荒れ果てた土地のない、人間との特異な調和がある風景。彼はこの目標に到達するために光それ自体を用います。それは全体的かつ心奪うような方法で使われました。彼の現実あるいは彼の写真に暗い領域はありません。彼の現実、彼の写真は見ることと記述することのための言語であり、曖昧にすること、隠蔽、変容のためのものではありません。

 ルジェッロ・ピエラントーニ[3]は次のように書いています。

 

 すべてのものがまさしく影のところで、光輝く、完全なクリスタルに没頭しているようであり、光の不在を指摘するよりかは、一種の浅い眠り(光の眠り)としてそれを指摘する。光はどこにでも存在しているので、存在しないようであり、全宇宙のどこかから来ているようには思われない。それは空間との単純な共存である。それは起源も運命も持たない。

 

 この概念と光の使途は、おそらくヨーロッパにおけるエヴァンズの時間に接続されます—より正確には、それはイタリアのルネッサンスから借りてこられているかもしれません。しかし、私はこれが中断された時間と風景における静けさの表明であると言いたいのです。エヴァンズのイメージは、物事がお互いにそして私たちに慣れる以前には、それが創世の翌日のようであったに違いないことを喚起します。それゆえに、望遠鏡の水晶玉の孤独のなかではすべてのものがより明瞭になりますが、けれども何にもまして、より独自的で魔術的になるのです(ロベルト・ムージル[4])。

 彼の視覚は、抑制の単一基準、均衡状態への絶え間ない探究に注がれるものです。それは包摂すると同時に他のものを排除する視覚であり、なぜならそれが「暗い部屋〔カメラ・オブスクラ〕」の空間の調整と修正のなかで、外側の世界の表現ための均衡状態の規格を見つけるからです。

 自然なと人工的なのあいだに、何かとその他の再生産のあいだに矛盾はありません。これは何度も提示していることですが、エヴァンズは、私たちの精神機能を実行するツールは複合顕微鏡あるいはカメラのようなものとしておそらく表現されるというジーグムント・フロイトの主張を完全に準拠することによって、この困難を乗りこえます。私たちはエヴァンズの偉大さが、彼の自然さに、写真家や芸術家になるために何も放棄しないその個人にあることを理解すべきです。

 エドガール・モラン[5]が写真について次のように書いています。「それらは表現できないことを表現するという叶わない欲望を表現する」。それらは言葉で言い表せないもののためのパスワードです。しかし、おそらく言語の失語症よりも他の言語を話し記述するために、判断を下すことを避けるために、私たちは言葉を強要し呼び出すことについてエヴァンズの謙虚さを見る必要があります。

 作家のジャンニ・チェラーティ[6]はかつて私に、エヴァンズの写真は世界への愛撫であると言いました。

 

Gran Bazaar, n. 46, October-November 1985

 

[1] Barthes, Roland, 1980, La chambre claire: Note sur la photographie, Éditions de l'étoile, Gallimard, Le Seuil, Coll "Cahiers du cinéma".(=1997,花輪光訳『明るい部屋――写真についての覚書』みすず書房,52-3.)

[2] 挿入された図(Walker Evans Between Tuscaloosa and Greensboro, Alabama, 1936)のこと。

[3] イタリアの生物物理学者、心理学者、学者および政治家、音響および視覚学者(1934-)。

[4] オーストリアの小説家・劇作家・エッセイスト(1880-1942)。

[5] フランスの哲学者、社会学者(1921-)。

[6] イタリアの作家、翻訳者、文芸評論家(1937-2022)。