The Open Work 1984

The Open Work 1984

Ghirri, Luigi, 2017, The Complete Essays 1973-1991, London: Mack, 109-12.

和訳、注は筆者による

 

「オープンワーク[1] 1984

 

 今日は1984年10月30日火曜日です。

 写真の説明と定義のための試みとして、過去数日間の長い反省をもって、私はこれらのページを書き進めています。これは私にとって簡単なことではありませんが、私は写真とともに仕事を始めてからずっとこのことについて考えていました・・・それはもっと長く、子どもの時からかもしれません。私はよく自分たちの家族アルバムや、世界中の写真が地図の合間に挿入されているページでいっぱいのとても美しい地図帳を見ていました。小さなもの、プライベートなもの、世俗的な聖書、そして大きなもの、公的な聖書には、他者の歴史と場所が載っています。

 おそらくこれが写真との最初の出会いでした。非常に大衆的な本と表面上予測可能な本というそれらの二種類の本は、内側と外側、私の場所と私の歴史、その世界の場所とその歴史というように、世界にある二つのカテゴリーを内包しつつ、私が理解した方法でそれを表現していました。

 とどまるための本と進むための本。

 当初から、私の作品では、内側と外側との決裂、個別的な歴史と知り合いとのコミュニケーションの決裂、この二重性を調整しようとしてきました。その二つの世界は分けられなければならないとか、その二つのカテゴリーは結びついてはならないというわけではありませんでした。そのかわりに、そこではできるだけ魔法のような均衡状態を保つための、関係、制度、あるいは矛盾さえも見つけられました。そして、それはまさしく統一性、完全性のためのこの探求であり、私を一つのアイデアに、壮大な仕事に導きました。

 私はほぼすぐに、たがいに関係することができなかった非常に多くの結びついていないモノをまとめるための手段としての写真というアイデアを拒絶しました。職人技に支えられているときでも、チャンスが写真家としての私の仕事の骨組みとなる可能性があるという考えを私は受け入れませんでした。

 ほかの場所で述べましたが、私はこれまで決して、明確で決定的なイメージや、言語、分析的な描線、すべてを網羅する概念・アイデア、感情とその引用の研究にも、新しい美的信条、あるいは流儀(スタイル)の使途の探究にも、興味を持ったことはありません。そのかわりに、作成技術としてそれらを包括的に受け入れたあとで、私はそれらの価値を区別しようとしていました。

 私は困難に対する何かマゾヒスティックな魅惑によって壮大さや記念碑性を選んだりはしません。むしろ、写真の無限の可能性に対する意識とともに、私は複雑性のほうを選ぶのです。

 かつてジーグムント・フロイトは、複合顕微鏡かカメラに似た何かと同じように、私たちは精神機能を実行するツールを描き出しているのかもしれないと言いました。このことは、私が写真について言っていたこととつねに思っていたことと一致するように私には思われます。この刺激、感覚、質疑、応答、そして個性のない細分化した視覚の無尽蔵の源泉、すなわち考えることと見ることの大冒険としての写真。私の作品はたびたび知的(多少の異議あり)であるとか、コンセプチュアル、シュール、ポップ、リアリスト、ハイパー・リアリスト、ポストモダンなどと呼ばれてきました。

 これらの形容詞はどれも正確ではありませんが、不正確ではないと思います。これは、私の写真に対する考えによるものかもしれません。写真の表現への無尽蔵の可能性とともに、私は世界とそれを表現する方法のリアリティを探究していました。私は繰り返し踏み固められた土地に避難場所を探すのではなく、むしろ、ときどき異なる作成方法と見方の方へ冒険しようとしていました。

 すべての批判的かつ知的な説明を超えて、すべての抱きうる否定的な側面を超えて、私が思うに、写真とはひとりひとりに息づく無限の欲望を育む恐るべき視覚言語です。私は以前言っていたのですが、写真とは思考と視覚の世界の大冒険であり、不思議なことに大人の意識と子どものおとぎ話の世界をいっしょに持ちあわせることのできる偉大な魔法のおもちゃであり、大なり小なりの、あらゆる差異の中への、幻想と外見の領域を通じる、豊富さ(プロフュージョン)と模造(シミュレーション)の迷宮や鏡張りの場所でのとぎれのない旅です。

 ホルヘ・ルイス・ボルヘスはある画家の話をします。その画家は全世界を描こうとして、キャンバスに湖、山、ボート、動物、顔、モノを描きはじめます。人生の最期に、すべてのキャンバスと絵を一緒に置くと、それが彼自身の顔のイメージで構成された巨大なモザイク画であることに彼は気づくのです。

 私の写真に関する企画の出発点を、この話と対比することができます。すなわち、そこには暗号を解くカギや、その全体で何かを定義するバラバラな個別のイメージで成り立つ構造を見つけることへの衝動があります。自伝的内容と外の世界を結びつけるか細い糸。

 これが理由で、私はいつも何かの(最初の)企画にいそしんできました。格子のような規則正しい計画に準拠するのではなく、制作の過程で遭遇する直感と偶然の出来事に対して開いたままにしておきます。「モンタージュ」と呼ばれるかもしれないモノ同士を適合させる方法は、はっきりとした理解がともなった、モザイクやパズルを組み合わせる方法に似ています。その最後にだけそのイメージが完成されるのならば、すべての個別のイメージもまたそれ自体で自律性と有効性をもたなくてはなりません。

 私に可能だったことなのですが、私はすべてを理解しようとする欲望からではなく、すべてのものを理解しようとする好奇心から、膨大な量の被写体に注意を向けてきました。私はかなり頻繁に繰り返される被写体をリストアップしているのかもしれませんし、そうしたものは少なからず作品のなかで繰り返されるテーマになっています。同じようにイメージを組み立てる方法をリストアップしているかもしれません。しかしそれよりも、制作においては一定のものを強調することにより興味を持っています。これは私が不変のものと呼ぶかもしれないものです。

 私はつねに、写真は見る言語であり、現実を翻訳したり、隠したり、修正したりするものではないと感じていました。私は、その本来の魔法が私の表現したい空間、モノ、風景を私たちのまなざしに向けて顕わにするがままにしています。確信しているのは、形式的な曲芸、強制的な形式から自由であるまなざし、あるいは徹底的な努力が意識的なものと飾り気のないものとのバランスをなんとか見つけるということです。こうして、暗い部屋〔カメラ・オブスクラ〕の空間の幾何学と修正において、外の世界の表象のための測量[2]の感覚を見つけるのです。

 これは暴力でも、あるいは視覚的‐感情的な衝撃でも、あるいは引き伸ばしでもありません。そうではなく、それは沈黙であり、明るさであり、出来事、モノ、場所との関係性のなかに入っていくことを可能にする厳格さです。

 この感覚において、私の大きな助けとなるウォーカー・エヴァンス―私が愛し、ほかの誰よりも近くに感じているアーティスト―に関する知識を私は言わんとするのかもしれません。

 私に影響を与えた人物についてどのように伝えたらよいのかわからない。なぜなら、名前を挙げるには多すぎて、誰かを取りこぼすかもしれないからだ。何人かは簡単に思い出せるが、顔については思い出せない。転換点、曲がり角、近道は視界から消え、それらを人は背後に置き去りにする。たった一度聴かれるだけのレコードのことだ。人は目を開くし、耳は影響されるのに、完全に何もそれについてできることはない。

 ボブ・ディラン(私が深く愛しているもう一人のアーティスト)によるこれらの言葉は、多くの写真にとってとても重要である影響、優先権、独創性という問題について、私が思うことをはっきりさせてくれます。

 私はいまままで写真の世界のほとんどに強く賛同する自分に気づいたことがありません。あまりにも頻繁に、この世界は自らの可能性を否定し、色彩の情動性に、強迫的な反復に、繰り返され辟易するスタイルの使用に、カテゴライズに、形式的な挑発に逃げてしまいます。

 いくつかの狂気じみた側面は私には危険であると思われます。すなわち、視覚の失語症としての写真、一時の麻酔投与(感覚喪失)のための控え室としての写真、とにかく独創的で創造的である必要性としての写真、新しさやトレードマークを得るためのやけくそな探究としての写真、アーティストとは外の世界を強く印象付ける視覚的編集によって認識されうるという信仰における写真。新しいテンポや様式を紹介しようとするかわりに、写真はそれ自体の再生産のための厳格な空間に入っていきました。おそらく、シェイクスピアの宣言はここで有効になります。「これはなんと果てなくおかしなことか、人間は盲目でも道が見えるように目を最大限に活用しなければならないとは!」

 不運にも、近年私たちは写真における創造性の概念のコロニー形成を目撃しました。ステレオタイプ化した創造性は、写真家の仕事にある根本的問題を忘れさせ、短絡的なものの類は現実との対話をさえぎり、鏡への独白に私たちを向かわせました。

 今日、私の企画全体がほとんど変わらなかったどころか、より正確になっているかもしれないと思っています。私は束の間のときでさえメモをとりましたが、多くのアイデアと形式は使えなくなって無くなりました。しかし、私の作品の骨組みはというと、何も大きな変化はありませんでした。

 近頃の視覚技術はまなざしの質に変化をもたらしました。そして電子イメージと映像技術は、写真を懐古趣味の屋根裏へと追いやるかのようです。しかし、こうしたすべてにかかわらず、私たちの前にはまだたくさんの余白があると私は信じています。場所—外側/内側—それらはますます高速かつ頻繫な視覚的刺激によって横切られるようになります。しかしながら、こうしたことは私たちからはっきりと見ることを妨げます。この不均一な海の真ん中において、ますます「類似品のなわばり」の全領土と化していく場所において、ますますかけ算が目の回る速さで行われていくようなところにおいて、私たちは写真で一時停止と反射の重要な瞬間を見ることができます。したがって、私たちは、外側の世界の速度によって破壊される注意の回路の再活性化の瞬間として写真を持つのです。

 私はすべてのものが偉大で、壮大で、通りすぎゆく風景であるとか、すべてのものは私たちの目の前から消えていくとは信じていません。しかし、どちらかといえば、私たちが調査の写真から写真の調査への移行を必要としていることを確信しています。見ることにおける新しい技術、新しい視覚的アルファベットを指し示す写真への調査だけではなく、とりわけその根本的なことである写真の必然的な状態への調査です。作者とその外側との新しい弁証法的な関係性を打ち立てるという写真への調査、新しい道、新しい概念、新しいアイデア、世界それ自体との新しい関係性、表現の適切な様式とともに、イメージと図を復権すること、そのために世界の写真を撮ることはまたそれを理解する方法となるでしょう。

 映画の映像と同じくらい速く動き、それと同時に絵画的な表象と同じくらい静的なまなざしを組織化するための方法でもある写真の中へ調査すること。おそらく、写真について私たちを魅了するかすかな秘密とは、それがまさに停止と進行の完全な合成のようなものであるということです。

 私の写真作品のアイデアはこれらすべての熟考から生じます。そしてそれゆえのオープンワークというアイデアなのです。いくつかパズルのピースはありませんし、ひとつひとつの作業が伸び縮みする空間のうえに展開しているので、単純ではありません。それは測量可能な実体において使い果たされるのではなく、それを超えて、すでに起こったことと起こり続けることとの継続する対話のなかで使い果たされます。

 したがってイメージとは、あまり定義できず、あまり分類できるものでもなく、あまり正確でもない輪郭としてみなされ、継続的な動きのなかにある大きな組織の一部となるようです。

 私の夢は、ステファヌ・マラルメと彼の偉大な本(「本で終わるためにすべてが存在する」)のようなものではありません。たとえ彼が「今日、すべてが写真で終わるために存在する」というように言い換えたとしてもです。おそらくそれは、本、あるいはより優れた個別的な地図帳のようなものを作るという、とても単純なアイデア—このエッセイのはじめに話した二つの本の完全な共生です。

 

Typewritten, 1984, translated into the French in Les Cahiers de la Photographie n. 15, 1985

 

[1] オープン(開かれた、展開されたなど)ワーク(仕事、制作、作品、作業など)。ウンベルト・エーコに同名の著作がある(原著は1962年出版、『開かれた作品』として邦訳されている)。

[2] ルイジ・ギッリには、写真家となる以前に測量士としてのキャリアがあった。